涙の気球実験 2001年5月20日
語り手: 永島 隆 (えいしま・たかし)

● 言葉で表せない体験

気球実験・・・あれはつらかったですね。あれで、僕、アトピーが悪化して、あの後、一ヶ月くらい体調がずっと悪かったんです。あの体験は、言葉では言い表せないです。
なぜ、そんなにつらい状況になってしまったかというと、やっぱり甘かったんですねえ。最初の基板作りを甘くみて、未経験の新人にやらせたあたり、今思うと信じられないです。もう一度やるとしたら、そこをきっちりやります。それに、言ってもしかたないけど、時間がもう少しほしかったですね。気球実験の日程は、宇宙研のほかの実験との兼ねあいもあって、僕らには選ぶ自由がなくて、この日程で、といわれたら、そこでやらないといけなかったんです。このプロジェクトはずっとそんな感じだったけど、とにかく時間が足りなくて、人手が足りなくて、ぎりぎりのところでやっていたんです。でも、もともと、一年で衛星を作ろうとすれば、スケジュールがタイトになるのは当然のことで、みんなそれぞれぎりぎりのところでがんばっていましたから、気球実験だけが特にひどかったというわけではなかったと思います。

● 気球実験をやろう!

気球実験をどうしてやることになったかというと、確か、中須賀先生がこういうのがあるよって、持ってきてくれたんだと思います。2000年の夏くらいだったかな。宇宙研ですごい気球を持っていて、それを使った実験を公募していたんです。それで、通信の実験をしようってことになったんですよ。航空宇宙学科では、通信の授業ってないから、もともと知識も経験も不足してるんで、カンサットのときもえらく苦労したんです。キューブサットは、カンサットと違って、宇宙に行ったきりで戻ってきませんから、もし通信がうまくいかなければ、宇宙で衛星がどうなっているのか、全くわからないですから、通信実験はすごく大事なんです。気球実験は、長距離で通信ができるかどうかを試す絶好のチャンスでした。
気球実験に応募するには、実験計画を出さないといけなくて、その締め切りは、秋だったんですが、僕は、そのころ修士論文に取り組まないといけない時期だったから、キューブサットからは少し手をひいていて、イトコンが通信系のリーダーになって、実験計画を作っていました。イトコンに、修論が終わったら、気球実験をやってくれっていわれてたんで、僕の修論が終わったその日に引継ぎのミーティングをしました。それが、確か2001年の3月くらいだったと思います。
3月22日には、津田さんといっしょに、宇宙研の山上先生、松坂先生のところに、打合せに行きました。試験の目的とか具体的なやり方とか、打合せしたんですが、宇宙研側は、他に四人も出席してくださって、すごく丁寧に説明してくれて、恐縮しました。その日の午後には、航空高専にいって、島田・若林両先生や電子工学科の学生20人くらいに応対してもらいました。航空高専の設備はさすがで、430MHzのパラボラアンテナが二基もあるんですよ。東大との交信実験もしたんですが、このときはうまくいきませんでした。原因ですか?ウチのほうの地上局にちょっとした問題があって、それを直したらうまくいくようになりました。

● ひずみとはずみ

実験に使う無線機は、西無線という会社に作ってもらいました。この会社は、西さんという、無線のプロが作った小さな会社なんですが、もともと東工大とやりとりがあったところです。でも、ちょっとしたいきさつがあって、僕らと無線機を共同開発することになりました。もし気球実験でうまくいかなかったら、代金はいらないって話だったんで、これはきっと大丈夫だろうと思って、いっしょに開発することにしました。
でも、後になってお互いの認識の差がおおいにあるということに気づきました。西さんは、人工衛星をあげようというくらいの大学生だったら、これくらいの無線機の知識はあるだろうという見込みで、つまり、アマチュア無線家なみの技術を期待して製作されたんですが、僕らのほうは、市販品のように、雑音は自動的に排除してくれる無線機を作ってくれるんだろうと思っていたんです。プロの業者さんに発注する際には、こちら側にも力が必要で、知っていれば、それなりの仕様も出せたんですけど、そのときは、僕らのほうも力不足だったと思います。ともかく、この認識の差が、後で大きなひずみになってしまったのかもしれないんですが、それは後にならないとわからなかったんですね。
一つ、嬉しかったのは、総務省から、通常のアマチュア無線の申請をすれば、三陸気球実験や宇宙運用をしていいという許可がおりたことですね。3月末だったと思います。前例がないことなので、役所の許可を得るのはとても大変だったんです。どうして、前例がないことって、あんなに大変なんでしょうね。許可が出なければ、実験もできないので、どうしようと思っていましたが、何度も何度も霞ヶ関に足を運んだ甲斐があって、OKが出ました。これで一気にはずみがつきました。

● 高速道路のタイムワープ

三陸に出発したのが、5月14日なので、二ヶ月足らずのあいだに、実験機器をすべて製作して、準備したことになります。もちろん、行く前の数日間はろくに寝てないですから、車に乗った瞬間に熟睡しました。起きたら、すでに高速をおりていました。8時間くらいはタイムワープしたみたいで、「すぐ着いちゃった」って感じでした。運転ですか?それは先生が一人でがんばってくれました。学生は全員爆睡してたんじゃないでしょうか。もし学生が睡眠不足のまま運転なんかしていたら、いまごろここにいなかったかもしれません。    

● 朝焼けの海

宿泊する旅館までたどり着いたのは、かなり遅い時間でした。で、着いて食事してから、寝る前に、無線機をちょっとだけ試してみようということになりました。これがいけなかった。「ちょっと試した」結果、うまくいかなくて、何度も何度も試す羽目に陥り、気がついたら、朝日が昇ってきてしまいました。作業していた部屋は、ちょうど海に面していて、朝日が海面にきらきらと反射して、すごくきれいだったのを覚えています。この旅館、「日の出荘」っていう名前なんです。名前のとおり、日の出がとてもきれいなんですが、寝ないで毎朝、日の出を見るのはつらかったですね。
「初日から徹夜」の実験は、最終日まで長くて苦しい実験になりました。でも、初日は、まだ元気だったせいか、朝焼けを楽しむ余裕がありました。5月18日が東大の実験日でしたから、まるまる3日は準備と調整にあてられるわけです。3日あれば、何とかなるだろうと思っていました。

● 地獄の一週間

この後の一週間は、地獄でした。僕が一番年上だったし、リーダーだったから、すごいストレスでした。どうやっても、ノイズが入ってしまって、気球実験ができるような状態にならないんです。何をやっても何度やってもうまくいかないことって、あるんですね。僕はその前年のカンサットを経験していて、通信実験がうまくいかないつらさはある程度わかっていましたが、あのときとはプレッシャーが違いました。カンサットのときは、もちろん必死だったけど、一年先輩の酒匂さんがプロマネをやっていて、僕は一スタッフだったし、それにある意味では、僕ら学生だけで完結していた話だったんです。この気球実験は、宇宙研の施設を使わせてもらって、宇宙研の専門家の方々に協力して頂いて、報告書もきっちりと求められていたから、「雑音がはいってデータがとれませんでした」ではすまなかったんです。それだけじゃなくて、東京ではもちろん、小田と金色は長野県の菅平まで行って、電波の受信をするために準備しているわけで、できませんでしたなんて、とても言えないですよ。ほんとにしんどかったなあ。

朝早くからみんなで実験場まで行って、いろいろ調整するんですけど、雑音がどうしても入ってしまうんです。朝からずっと作業して、昼飯もぬいて作業して、暗くなっても作業して、それでもうまくいかなくて、夜になってへとへとになって帰るんですが、車の中で、みんな押し黙ってしまうんですよね。先生が元気づけようといろいろしゃべってくれるんですけど、僕は相槌を打つのが精一杯で、心身ともにくたくたでした。海辺の旅館だから、おいしそうな海の幸が並ぶんですけど、何を食べてもあんまり味がしませんでした。

● 竹製工具

宇宙研の先生たちも技官の方たちも、ものすごく協力的で、本当にありがたかったです。僕らがあまりに悪戦苦闘しているので、見るに見かねて、いろいろアドバイスや直接的なヘルプをくれました。
キューブサットのアンテナは、キューブの中ではクルクルと巻いてあって、宇宙空間に出たら、ピヨンと伸びるようになっています。軽くて高性能の自慢の品です。でも、宇宙用に作ってあるので、地上では重力に簡単に負けてしまって、「ピヨン」とならずに「ダラリ」と垂れ下がってしまいます。 「これで、ちゃんと電波がいくのかなあ」と不安げな僕たちを見て、宇宙研の山上先生が御自ら外へ行って、細い竹を切ってきてくれました。
「これ使ったらいいよ」
なるほど、その竹にアンテナを固定しておけば、宇宙空間と同様の形を保てるというわけで、ローテクですが、効果は抜群でした。発想は柔軟でないといけないですね。

● 東工大さん、お先にどうぞ

ノイズ除去にあたっては、宇宙研の方々のお知恵をずいぶんと借りましたが、なかなかうまくいかず、結局、東大の実験日には間に合わず、東工大に先にやってもらうことになりました。えっ、石川さんがあのとき泣いたんですか?どうして?全然知らなかった・・・でも、僕も泣きたい気分だったですねえ、あのときは。

<証言:石川 早苗(いしかわ・さなえ)>
泣いたっていっても、ちょっと涙が出たっていうだけですよ。大げさに言わないでくださいね。えーっと、あのときは確か、深夜12時をまわったころで、「明日だめだったらもうあきらめよう」という話し合いをしながら、お通夜みたいな雰囲気の中で遅い夕食を食べた後だったと思います。毎日毎日遅くまでやって、朝は早くに起きて、本当に一生懸命やってるのに、全然うまくいかなくて。東工大のみなさんが、涼しい顔で6時くらいに帰るのを横目で見ながら、どうしてうまくいかないんだろうって、思っていました。女性は私一人だったんで、一人部屋にしてもらっていて、中須賀先生の部屋の隣だったんです。食堂から部屋に戻る途中で、中須賀先生に、「こんなに一生懸命やっているのに・・」と口がすべったんです。そしたら、不覚にも涙が出てしまったんです。それだけですよ。その後は、悲嘆にくれる余裕もなく、バタンキューで寝てしまいました。

● 明日こそ!

電源の安定化のために、電源ラインを太くしました。リード線をつけて、たくさん電流が流れるようにするんです。少しずつ向上して、東大モジュールとしてはノイズがなくなったんですが、宇宙研の気球のモジュールと組み合わせると元の木阿弥になって、ダメだということがわかりました。回路設計にミスがあって、部品を外付けしないといけないことがわかり、宇宙研の技官の方に、基板をその場で作ってもらいました。センサーの一個一個につき、一つ一つかませる必要がありました。東工大の実験が18日に終わって、19日は東大の番だって言ってたんですが、ノイズがとれなくて結局できませんでした。三陸入りしてから一週間。次の実験が入っているので、もうこれ以上延ばせないという中で、疲れもピークに達していました。6割くらいはいけそうだったので、不安はありましたが、20日に決行することにしました。ずっと、昼飯はぬきでやってたんですが、準備の最終日に、宇宙研の先生が、蒸しパンを差し入れてくれました。こういうのって、心にしみるっていうか、ほんとにありがたかったですね。

● クラゲ気球

実験の当日、快晴でした。山頂の建物で作業して、チェックして、発泡スチロールに入れました。メンバーの名前を発泡スチロールに書きました。海に落ちてから、漁船が見つけてくれるかもしれないと思って、研究室の住所も書いておきました。戻ってきたかって?残念ながら、回収はできていないんです。戻ってきたら嬉しいでしょうね。 気球っていっても、普通の熱気球と違って、薄い膜みたいなものでできていて、すごく軽いんです。ちょうど、スーパーのビニール袋くらいの薄さかな。二重構造になっているので、けっこう丈夫なんだそうです。これに10キログラムのペイロードを載せるんですが、同じ構造のもので、もう少し大きな気球だと、2トンくらいのものでも実験できるそうです。クラゲみたいな感じで、薄い白い膜が頼りなげにあるんですが、中にヘリウムガスを入れます。上空にあがると、気圧が下がるので気球が膨らみます。100分ほどかけて、40キロメートルの高さまで上がるんですが、そのあたりだと、もう空気はほとんどなくて、真空に近い状態になって、気温も相当に下がります。それで、蓋つきの発泡スチロールの箱に入れて、温度があまり下がらないように工夫しました。 僕以外は、山頂のほうの建物に設置した地上局のほうで準備をしていたので、放球(気球をあげること)の場面に立ち会って、気球があがるのを見られたのは、僕だけなんです。すっごくいい天気で、クラゲみたいなのがするするとあがっていくんですよ。見とれてぼーっとしていたら、トランシーバーから、先生のでかい声が、「はよー戻ってこんかー!」と聞こえてきて、我に返りました。

● 嬉し涙の最終日

鵜川、桑田、石川の三人が屋上にしつらえた地上局でコマンドを打ったり、アンテナの向きを調整したりして、僕と先生が二階でデータの解析や他の地上局との連絡にあたることにしていました。電話はずっとつなぎっぱなしにして、他の地上局との連絡に使っていました。もう、ドキドキですよ。本当に音が来るんだろうか、通信ができるんだろうかって。

「ビーコンがきたきた!」という東京からの声がヘッドホンから聞こえたときはびっくりしました。だって、ほんの三十分で、東大局に届いているわけですからね。予想していたより、ずっと早くに届いたんです。周波数が高いほど、電波は直進するものなんです。低いと回折するから、電離層で反射されて帰ってくるんです。このときは、アマチュア帯を使いましたから、70センチくらいの波長でした。ビーコンがとれれば御の字と思っていたのが、パケットがとれて、デコードできたんですよ。嬉しいというか、もう、夢中でした。屋上にいる連中にトランシーバーで連絡したら、みんな、すごく喜んでくれて。興奮の中で、僕らはみんな、飲まず食わずでトイレも行かず、ずっとかかりきりでした。30秒ごとにアップリンクする局が切り替わっていくという時間的にハードな運用だったんですが、うまくいきました。アマチュア無線の人たちから、受け取ったというメールがきたのも嬉しかったです。北海道や神奈川から連絡をもらいました。

<証言:桑田 良昭(くわた・よしあき)>
永島さんは、本当に大変そうでした。永島さんだけが博士課程の学生で、他はみんな修士の一年生でしたから、作業をしたり、ちょっとアイディアを言うくらいはできるんですが、永島さんは、最終的な判断をして決めていかないといけない立場だったんです。そのときは、必死だったから、気づかなかったけれど、永島さんがわからないなら、僕らはわからなくても当然、みたいなところがあったように思います。中須賀研では、一学年違うだけでも、経験・知識量の差が極めて大きいのです。多くのメンバーが感じていることだとは思いますが、一年後に自分が一つ上の先輩と同じだけの知識・経験を積んでいるかははなはだ怪しいと思えるぐらいの差があるんです。僕はカンサットの経験もなかったし、プロジェクトに参加して5ヶ月くらいしかたってなかったので、永島さんのことをすごく頼もしい先輩と思っていました。みんな同じだったと思います。実は、地上局のソフトもできてなくて、現地で永島さんが作っていたんです。最初、ビジュアルCで書こうといっていて、本も持ってきてたんですが、結局それはあきらめたみたいでした。でも、僕らが寝てから、二時間くらいは作業していたと思います。僕らだって、寝るのは、早いときで3時、遅いときは朝6時とか7時になって仮眠をとるだけだったんですから、永島さんは、ほとんど寝る時間はなかったと思います。アトピーなので、一日一回はシャワーを浴びないといけないそうで、「朝食よりシャワーをとる」っておっしゃって、朝ご飯もぬいていることもありました。旅館に戻ってから、食事までの少しの間に、意識不明みたいになって部屋で横になっている永島さんをよく見ました。食事ができると、永島さんを揺り起こしに行くんです。
「人間ががんばる」っていうのは、こういうことなのかと思ったのを覚えています。

● 菅平地上局の孤独な戦い

電波を受信するところを「地上局」って言うんですが、この実験では、三陸の現地、本郷の東大、都立航空高専、それに、長野県の菅平にある電通大の施設の4ヵ所に設置しました。電通大の冨沢先生のご好意で、菅平を使わせてもらえることになりました。金色が車を出して、小田と二人で菅平の地上局で受信することになっていました。東工大の宮下も同行することになっていて、三人で受信するという話でした。ところが、東大が不調なため、東工大と日程を入れ替えたせいで、金色と宮下がいったん東京に戻ることになって、小田は一人で受信作業をすることになってしまったんです。小田は、学部の三年生になったばかりでしたが、よくがんばってくれたと思います。

<証言:小田 靖久(おだ・やすひさ)>
はあ、もう、金色さんも宮下さんも帰っちゃうし、車もないし、そのうえ、土日はそこの施設の管理人さんもいなくなっちゃうんで、外から鍵をかけられて、一人で軟禁状態でした。車がないので買い出しにも行けなくて。食事ですか?東京から持ってきたもので、食いつないでました。
本番の時には、金色さんが東京からとんぼ返りで応援にきてくれたんですけど、徹夜明けだったんで、ほとんど寝ておられました。それで、一人で受信用のパソコンを操作しながら、アンテナの向きを合わせながら、電話用のレシーバーを頭にくっつけて東京や三陸の地上局と話しながら、軌道計算なんかやっていました。もっときれいに受信できると思ったんですが、三陸と菅平の間に、白根山とかいう山があるせいか、あまり電波状況はよくなくて、ビーコンはとりあえず取れたものの、受信成績が最低でショックでした。
金色さんが睡眠不足だったので、帰りの運転を私がしたんですが、私も相当に疲れていて、軽井沢から横川へ行く高速道路で、中央分離帯にぶつかってしまいました。時速90キロでしたが、ポールがあったので、それに接触しただけですみました。本当に運がよかったです。

● よき思い出に

そんなこんなで、気球実験はつらい一週間でしたが、結果的には大成功でした。アップリンク送信では425キロメートル、ダウンリンク受信では492キロメートルを記録しましたから、ウチのキューブサットと地球の双方向通信機能は大丈夫だということを実証できました。
・・すごくつらかったですよ。ほんとに。でも、いい経験になったと、今は言えます。実際の衛星運用に向けての貴重な経験をさせてもらったと思います。
今度やるなら、もっとうまくできると思います。

<証言:桑田 良昭(くわた・よしあき)>
実験が一日延びてしまったので、帰京するのも一日延びることになりました。僕は、どうしても用事があったので、日曜日に帰らなければならず、新幹線で一足先に帰ることにしました。駅についてから、新幹線の切符を買うには、60円足りないことに気づきました。 1週間も睡眠不足の日々が続いていて、所持金がどれくらいあるのか、まったく意に介していなかったのですが、財布の中のお金がわずかに足りません。JRですから、60円まけてくれるとは思えません。しかたなく、外へ出て、ATMを探し始めました。郵便局と銀行のカードはもっていましたから、お金はおろせるだろうと思っていました。しかし、不運なことに、日曜日だったので、ATMはどこもしまっていたんです。 30分ほど駅のまわりをぐるぐると探し回って、銀行らしきところをさがしましたが、しかし、どこもしまっていました。で、僕の取った行動は、お金を恵んでもらうことでした。駅に高校生のグループがいたので、言ってみました。 「東京まで帰るのに60円だけ足りないので、悪いんだけど、お金貸してもらえませんか?」 幸運なことに、といいますか、その高校生は素直に貸して(返していないので、恵んでくれたわけですが)くれました。影で「人助けしちゃったよ、いいことしたなぁ」とまで言われてしまいました。

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