涙の気球実験 2001年5月20日
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<証言:石川 早苗(いしかわ・さなえ)> 泣いたっていっても、ちょっと涙が出たっていうだけですよ。大げさに言わないでくださいね。えーっと、あのときは確か、深夜12時をまわったころで、「明日だめだったらもうあきらめよう」という話し合いをしながら、お通夜みたいな雰囲気の中で遅い夕食を食べた後だったと思います。毎日毎日遅くまでやって、朝は早くに起きて、本当に一生懸命やってるのに、全然うまくいかなくて。東工大のみなさんが、涼しい顔で6時くらいに帰るのを横目で見ながら、どうしてうまくいかないんだろうって、思っていました。女性は私一人だったんで、一人部屋にしてもらっていて、中須賀先生の部屋の隣だったんです。食堂から部屋に戻る途中で、中須賀先生に、「こんなに一生懸命やっているのに・・」と口がすべったんです。そしたら、不覚にも涙が出てしまったんです。それだけですよ。その後は、悲嘆にくれる余裕もなく、バタンキューで寝てしまいました。 |
● 明日こそ!
電源の安定化のために、電源ラインを太くしました。リード線をつけて、たくさん電流が流れるようにするんです。少しずつ向上して、東大モジュールとしてはノイズがなくなったんですが、宇宙研の気球のモジュールと組み合わせると元の木阿弥になって、ダメだということがわかりました。回路設計にミスがあって、部品を外付けしないといけないことがわかり、宇宙研の技官の方に、基板をその場で作ってもらいました。センサーの一個一個につき、一つ一つかませる必要がありました。東工大の実験が18日に終わって、19日は東大の番だって言ってたんですが、ノイズがとれなくて結局できませんでした。三陸入りしてから一週間。次の実験が入っているので、もうこれ以上延ばせないという中で、疲れもピークに達していました。6割くらいはいけそうだったので、不安はありましたが、20日に決行することにしました。ずっと、昼飯はぬきでやってたんですが、準備の最終日に、宇宙研の先生が、蒸しパンを差し入れてくれました。こういうのって、心にしみるっていうか、ほんとにありがたかったですね。
● クラゲ気球
実験の当日、快晴でした。山頂の建物で作業して、チェックして、発泡スチロールに入れました。メンバーの名前を発泡スチロールに書きました。海に落ちてから、漁船が見つけてくれるかもしれないと思って、研究室の住所も書いておきました。戻ってきたかって?残念ながら、回収はできていないんです。戻ってきたら嬉しいでしょうね。 気球っていっても、普通の熱気球と違って、薄い膜みたいなものでできていて、すごく軽いんです。ちょうど、スーパーのビニール袋くらいの薄さかな。二重構造になっているので、けっこう丈夫なんだそうです。これに10キログラムのペイロードを載せるんですが、同じ構造のもので、もう少し大きな気球だと、2トンくらいのものでも実験できるそうです。クラゲみたいな感じで、薄い白い膜が頼りなげにあるんですが、中にヘリウムガスを入れます。上空にあがると、気圧が下がるので気球が膨らみます。100分ほどかけて、40キロメートルの高さまで上がるんですが、そのあたりだと、もう空気はほとんどなくて、真空に近い状態になって、気温も相当に下がります。それで、蓋つきの発泡スチロールの箱に入れて、温度があまり下がらないように工夫しました。 僕以外は、山頂のほうの建物に設置した地上局のほうで準備をしていたので、放球(気球をあげること)の場面に立ち会って、気球があがるのを見られたのは、僕だけなんです。すっごくいい天気で、クラゲみたいなのがするするとあがっていくんですよ。見とれてぼーっとしていたら、トランシーバーから、先生のでかい声が、「はよー戻ってこんかー!」と聞こえてきて、我に返りました。
● 嬉し涙の最終日
鵜川、桑田、石川の三人が屋上にしつらえた地上局でコマンドを打ったり、アンテナの向きを調整したりして、僕と先生が二階でデータの解析や他の地上局との連絡にあたることにしていました。電話はずっとつなぎっぱなしにして、他の地上局との連絡に使っていました。もう、ドキドキですよ。本当に音が来るんだろうか、通信ができるんだろうかって。
「ビーコンがきたきた!」という東京からの声がヘッドホンから聞こえたときはびっくりしました。だって、ほんの三十分で、東大局に届いているわけですからね。予想していたより、ずっと早くに届いたんです。周波数が高いほど、電波は直進するものなんです。低いと回折するから、電離層で反射されて帰ってくるんです。このときは、アマチュア帯を使いましたから、70センチくらいの波長でした。ビーコンがとれれば御の字と思っていたのが、パケットがとれて、デコードできたんですよ。嬉しいというか、もう、夢中でした。屋上にいる連中にトランシーバーで連絡したら、みんな、すごく喜んでくれて。興奮の中で、僕らはみんな、飲まず食わずでトイレも行かず、ずっとかかりきりでした。30秒ごとにアップリンクする局が切り替わっていくという時間的にハードな運用だったんですが、うまくいきました。アマチュア無線の人たちから、受け取ったというメールがきたのも嬉しかったです。北海道や神奈川から連絡をもらいました。
<証言:桑田 良昭(くわた・よしあき)>
永島さんは、本当に大変そうでした。永島さんだけが博士課程の学生で、他はみんな修士の一年生でしたから、作業をしたり、ちょっとアイディアを言うくらいはできるんですが、永島さんは、最終的な判断をして決めていかないといけない立場だったんです。そのときは、必死だったから、気づかなかったけれど、永島さんがわからないなら、僕らはわからなくても当然、みたいなところがあったように思います。中須賀研では、一学年違うだけでも、経験・知識量の差が極めて大きいのです。多くのメンバーが感じていることだとは思いますが、一年後に自分が一つ上の先輩と同じだけの知識・経験を積んでいるかははなはだ怪しいと思えるぐらいの差があるんです。僕はカンサットの経験もなかったし、プロジェクトに参加して5ヶ月くらいしかたってなかったので、永島さんのことをすごく頼もしい先輩と思っていました。みんな同じだったと思います。実は、地上局のソフトもできてなくて、現地で永島さんが作っていたんです。最初、ビジュアルCで書こうといっていて、本も持ってきてたんですが、結局それはあきらめたみたいでした。でも、僕らが寝てから、二時間くらいは作業していたと思います。僕らだって、寝るのは、早いときで3時、遅いときは朝6時とか7時になって仮眠をとるだけだったんですから、永島さんは、ほとんど寝る時間はなかったと思います。アトピーなので、一日一回はシャワーを浴びないといけないそうで、「朝食よりシャワーをとる」っておっしゃって、朝ご飯もぬいていることもありました。旅館に戻ってから、食事までの少しの間に、意識不明みたいになって部屋で横になっている永島さんをよく見ました。食事ができると、永島さんを揺り起こしに行くんです。 「人間ががんばる」っていうのは、こういうことなのかと思ったのを覚えています。 |
● 菅平地上局の孤独な戦い
電波を受信するところを「地上局」って言うんですが、この実験では、三陸の現地、本郷の東大、都立航空高専、それに、長野県の菅平にある電通大の施設の4ヵ所に設置しました。電通大の冨沢先生のご好意で、菅平を使わせてもらえることになりました。金色が車を出して、小田と二人で菅平の地上局で受信することになっていました。東工大の宮下も同行することになっていて、三人で受信するという話でした。ところが、東大が不調なため、東工大と日程を入れ替えたせいで、金色と宮下がいったん東京に戻ることになって、小田は一人で受信作業をすることになってしまったんです。小田は、学部の三年生になったばかりでしたが、よくがんばってくれたと思います。
<証言:小田 靖久(おだ・やすひさ)>
はあ、もう、金色さんも宮下さんも帰っちゃうし、車もないし、そのうえ、土日はそこの施設の管理人さんもいなくなっちゃうんで、外から鍵をかけられて、一人で軟禁状態でした。車がないので買い出しにも行けなくて。食事ですか?東京から持ってきたもので、食いつないでました。 本番の時には、金色さんが東京からとんぼ返りで応援にきてくれたんですけど、徹夜明けだったんで、ほとんど寝ておられました。それで、一人で受信用のパソコンを操作しながら、アンテナの向きを合わせながら、電話用のレシーバーを頭にくっつけて東京や三陸の地上局と話しながら、軌道計算なんかやっていました。もっときれいに受信できると思ったんですが、三陸と菅平の間に、白根山とかいう山があるせいか、あまり電波状況はよくなくて、ビーコンはとりあえず取れたものの、受信成績が最低でショックでした。 金色さんが睡眠不足だったので、帰りの運転を私がしたんですが、私も相当に疲れていて、軽井沢から横川へ行く高速道路で、中央分離帯にぶつかってしまいました。時速90キロでしたが、ポールがあったので、それに接触しただけですみました。本当に運がよかったです。 |
● よき思い出に
そんなこんなで、気球実験はつらい一週間でしたが、結果的には大成功でした。アップリンク送信では425キロメートル、ダウンリンク受信では492キロメートルを記録しましたから、ウチのキューブサットと地球の双方向通信機能は大丈夫だということを実証できました。
・・すごくつらかったですよ。ほんとに。でも、いい経験になったと、今は言えます。実際の衛星運用に向けての貴重な経験をさせてもらったと思います。
今度やるなら、もっとうまくできると思います。
<証言:桑田 良昭(くわた・よしあき)>
実験が一日延びてしまったので、帰京するのも一日延びることになりました。僕は、どうしても用事があったので、日曜日に帰らなければならず、新幹線で一足先に帰ることにしました。駅についてから、新幹線の切符を買うには、60円足りないことに気づきました。 1週間も睡眠不足の日々が続いていて、所持金がどれくらいあるのか、まったく意に介していなかったのですが、財布の中のお金がわずかに足りません。JRですから、60円まけてくれるとは思えません。しかたなく、外へ出て、ATMを探し始めました。郵便局と銀行のカードはもっていましたから、お金はおろせるだろうと思っていました。しかし、不運なことに、日曜日だったので、ATMはどこもしまっていたんです。 30分ほど駅のまわりをぐるぐると探し回って、銀行らしきところをさがしましたが、しかし、どこもしまっていました。で、僕の取った行動は、お金を恵んでもらうことでした。駅に高校生のグループがいたので、言ってみました。 「東京まで帰るのに60円だけ足りないので、悪いんだけど、お金貸してもらえませんか?」 幸運なことに、といいますか、その高校生は素直に貸して(返していないので、恵んでくれたわけですが)くれました。影で「人助けしちゃったよ、いいことしたなぁ」とまで言われてしまいました。 |
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