ブルーな気球実験 
語り手: 中谷 幸司(なかや・こうじ)

● 気球実験一週間前の爆発 

気球実験というのは、衛星を載せて40キロくらいの高さまであげて、地上との通信ができるかどうかということを試す実験です。東大といっしょに、宇宙研の気球を使わせてもらって、実験することにしていました。それくらいの高さまであがると、かなり遠方のところとも通信ができるので、東工大にも地上局の設備を作って、電波を待ち受けることにしていました。

そのころ、フランスのISU(国際宇宙大学)が主催するシンポジウムがあって、東工大から2本発表することになっていました。一つはCanSat2000、もう一つは宇井がやっていた衛星設計コンテストの内容でした。CanSat2000は自分がプロマネだったので、ぜひ自分で発表したかったのですが、気球実験の優先度が高いと判断して、CanSat2000の発表も宇井にやってもらいました。宇井の話だとフランスは相当楽しかったらしいので、ちょっと残念でした。

まあ、それはいいんですが、出発の一週間前に、とんでもないことが起こって、自分は、怒りまくりました。通信系の担当だった岡田が、5ボルトしかかけてはいけないところに12ボルトの電圧をかけてしまって、衛星内部の電気的な部分がダメになってしまったんです。あと一週間しかないので、けっこう詰めて仕事をしていて、気がたっているせいもあって、自分は岡田を怒鳴りつけてしまいました。(後でちゃんとあやまりましたよ、念のため)しかも、通信系はたいして被害を受けなかったんですが、自分がやっていたOBCは、使いものにならなくなってしまいました。基板を焼くのって、ものすごく面倒な作業なんですが、一からやり直しです。OBC系の基板は特に配線が細く、感光基板ではなかなか実現が難しいものでした。三枚作ってなんとか一枚つかえるかどうかといった具合でした。三枚作って、それぞれに対して配線の導通チェックが必要なので、ものすごく時間がかかりました。もちろん、徹夜作業になりました。あれにはほんとに参りました。 

その後、岡田はいろんな実験をやるときに電圧について相当慎重になりました。一度、自分が何かの実験をやるときに、岡田に「中谷さん、電圧気をつけてくださいよ!!」といわれて、思わず二人で笑ってしまったことを覚えています。

証言:此上 一也(このうえ・かずや)
プロマネをやっていると、みんながいろいろ言ってくるんです。なんでこんなに言われなきゃいけないんだと思うこともありました。一番つらかった時期は、プロマネになってから半年くらいたったときのことで、感情的なぶつかり合いが顕著になったころです。バイトに行っていて、それが起こったときには研究室にいなかったんですが、電話がかかってきて、中谷が電話の向こうで叫んでいました。事情を聞いて、すぐに研究室に行きました。不穏な雰囲気になっていて・・・。心配だったので、OBCだけじゃなくて、すべての基板を作り直すことにしました。何とか、実験には間に合いました。

● 準備はスイスイ

気球実験では、すべてのプロジェクトを通して、一番悔しい思いをしました。 徹夜で作り直して、現地へ運んで、調整作業をしていたんですが、ずっとスイスイいっていたんです。すべて計画どおりで、順調でした。東大がうまくいかないから、先にやってくれといわれて先にやったんですが、準備万端で何の支障もありませんでした。

三人がにっこりしている写真

そうそう、宇宙研の稲谷先生がすごく厳しかったです。自分らが出した実験の説明を見て、「俺の学生だったら、こんなの許さないね」なんて言われたりしました。衛星が冷えすぎないように、発泡スチロールの箱みたいのにいれるんですが、その側面に、「何でも好きなことを書けや」とおっしゃるので、みんなで名前など書いたら、それをごらんになって、「こんなに汚くするなら、書けなんていうんじゃなかった」とのコメント。でも、厳しい中にも愛情が感じられたし、宇宙研の先生や技官の方々には、本当にお世話になりました。

発泡スチロールにメンバーの名前!

早朝から準備して、薄くて白い気球をふくらませて、衛星を載せます。このあたりは、宇宙研の技官の方達が手馴れておられて、何の問題もありませんでした。気球はあっという間に見えなくなってしまいました。いよいよ、実験本番です。

● アップリンクが通りません!

屋上にアンテナをたてて、音が来るのを待っていました。ビーコンはすぐにきて、よし、と思ったんですが、FMがいまひとつでした。東工大のFMパケットには2種類のプロトコルがありました。一つは、東大も使用しているAx.25、もう一つはSRLLといって東工大のオリジナルなものです。SRLLは誤り訂正機能が実装されており、通信中のデータに誤りが発生しても訂正することができます。実験当初は、どちらのプロトコルによるパケットも順調に受信でき、デコードも正常でした。しかし、ある高度になると、まずAx.25が受信できなくなり、その後SRLLも受信できなくなりました。アップリンクも最初のうちは確実に通っていたのですが、ある高度で通らなくなりました。 ビーコンは常に聞こえており、東工大地上局でも受信できました。だから、通信そのものがダメになったというわけではなく、FM送受信機に不具合が発生したと言ったほうが正確です。

気球膨張

屋上での作業風景

もう、すごくショックでした。情けないというか、なんというか、自分、けっこう自信あったんで、なんで取れないんだと思いました。地上でやっているときは、何の問題もなかったんです。

証言:此上 一也(このうえ・かずや)
僕は、三陸へ行かず、東工大の地上局で、スタンバイしていました。電話もずっとつないでおいて、いつでも連絡がとれるようにしていました。今でも覚えているのは、電話の向こうで叫ぶ「アップリンクがとおりません、アップリンクがとおりません」という悲痛な声です。僕は、通信系の担当もしていたので、通信がうまくいかなかったということで、プロマネとしても個人としても、相当にこたえました。

証言:占部 智之(うらべ・ともゆき)
気球実験前一週間の追い込みは尋常ではなく、人間の限界というのを初めて経験しました。僕は研究室に所属して2ヶ月目でしたが、それでも研究室に4泊5日しました。回路図からプリント基板にパターンを落とす作業、感光基板を作る作業を延々とやっていました。そんな時に岡田さんがやっちまったんです。(笑)いや、でもあれだけ睡眠をとらずにやっていれば、間違いの一つや二つが起こってもおかしくはなかったと思います。しかし男・岡田は通信系の基板ではなく、一番やってはいけないOBCの基板を壊してしまったんです。今だからこそ笑い話ですが、当時は本当に笑えませんでした。その煽りは全系に降りかかり、すべての系がバックアップ基板を作ることになりました。「岡田は一旦寝ろ!」と言われている中で、通信系のバックアップ基板をせっせと作っていたのは僕でした。作り終えた基板を、起きてきた岡田さんに渡して・・・、そのあとの記憶は机と机のあいだから天井を見上げている視界でした。寝るではなく落ちるという経験を初めてしました。でもそれはその後3年間の研究室生活のほんの序章に過ぎなかったのです・・・。
   

● ブルーでも中尊寺

そういうわけで、実験後は、自分としてはブルーでした。その二日後の東大実験までいて、東京に戻る予定にしていました。ノイズが入って苦戦していた東大が実験したら、FMがとれて、しかも、東京でも取れてデコードできたっていうのがわかって、ショックでした。

もう、いてもたってもいられなくて、早く東京に戻って、原因を探って、改良して、試験してと、そればかりで頭がいっぱいでした。いっしょにいた岡田も占部も澤田も同様だったと思います。ところが、松永さんが、「せっかく来たんだから、観光していこうよ」と言うんで、しかたなく中尊寺とか、まわりました。自分も、最後のほうは松永ペースにはまって、観光客してたような気がします。

でも、このときの失敗は、結果的にはよかったのかもしれないと思います。最初の年のカンサットでも、本番でカンが接触不良で動かなくなって悔しい思いをしましたが、そのときよりもずっと悔しかったです。これ以降、何かあると、徹底的に原因を究明して、改良に改良を重ねるようになりました。