針のむしろ@宇宙研 --- 気球実験裏話
中谷幸司(なかや・こうじ)
● カンからキューブへ
2000年のカンサット実験は、4年生に宮下・居相・岡田という、強力メンバーを迎え、自分がプロマネで、5機も作りました。自分でいうのもなんですが、かなりの成果があがりました。けっこういけそうだという自信も、ほんの少しできてきて、キューブサットをいよいよ作ることになり、張り切っていました。
11月のUSSSでは、東大がBBMを作ってきていました。自分らは間に合わなかったんですから、えらそうなことはいえないんですが、東大のを見て、ここをこうすればもっとうまくできそうだなどと、内心思ったりしていました。USSSが終わってから、体制も変わり、此上さんがプロマネになって、新組織でスタートしました。自分や澤田は、修士論文があったので、しばらく抜けていましたが、修士論文が終わるやいなや、BBMにとりかかりました。
● 気球実験打ち合わせ
2001年5月には、宇宙研が三陸沖であげる予定の気球を使わせてもらって、通信実験をする予定になっていました。宇宙研の稲谷先生から、気球実験公募の情報を頂いたのが発端だと聞いています。学生が衛星を作って打ち上げるという計画を、笑わないで真剣に考えてくれた宇宙関係者はけっこういて、いろいろなチャンスを与えてくれました。
公募の書類を秋に提出して、1月末に、宇宙研で気球の採択委員会で、正式に採択していただきました。「もう後戻りはできません。いい実験をやりましょう」というメールが、稲谷先生から、中須賀・松永両教官に届いたそうです。
自分は、そういう「後戻りはできない」というような、悲壮な覚悟を先生たちがしてくださっていたことは全く知りませんでしたし、カンサットがうまくいったので、この調子で気球実験もなんとかなるだろうと少し油断していたところがあったのかもしれません。
宇宙研の技官の方から、気球実験の打ち合わせをしましょうというお話を頂いて、自分と岡田と二人で、宇宙研へ行くことになりました。そのとき、本当に軽い気持ちで、資料も作らずに、ホイホイと相模原の研究所まで行ってしまったのが、間違いのもとでした。
● 集中砲火で撃沈
技官の方お一人と、自分たち二人が打ち合わせするんだろうと、気楽な気分でうかがったんですが、到着したら、恐ろしいことになっていたんです。
「せっかくだから、先生たちにも聞いてもらいましょう」ということになっていて、部屋には、ずらりと先生たちがすわっておられたんです。
ロの字型に机が配置してあって、自分と岡田がロの字の一辺にすわって、他の三辺には、稲谷先生とか、山上先生など、えらい先生たちがずらずらと座っておられるんです。心臓がキュンと縮み上がるのを感じながら席につきました。
当時の宇宙研は、少人数で、少ない予算で、よくこんな成果が出せると、国際的に認められているようなところでした。(今は、宇宙三機関統合で、宇宙研という組織は消滅し、JAXAになっています)先生たちは、「世界で一番」を常に目指しているだけあって、とても忙しい方ばかりなんですが、学生の自分たちとの「打ち合わせ」のために、わざわざ時間を作ってくださっていたんです。それなのに、こっちは、ろくに準備もしないで来てしまったわけなんです。
それでも仕方ないので、黒板にちゃちな図を書きながら、実験概要について説明しました。でも、資料も作っていないくらいですから、ほとんど詰めていない状態だったんです。当然のことながら、居並ぶ先生や技官の皆さんから、「それはおかしい」「それは違う」「それはどうなっているんだ」と、集中砲火を浴びました。稲谷先生の大阪弁でのご指導は、正直いって、こわかったです。
● 落ち込みからの学び
宇宙研から、淵野辺の駅まで、徒歩15分くらいですが、その間、岡田も自分も、一言も口を聞かず、うつむいて歩きました。キューブサットは、カンサットのときとは比べ物にならないくらい大変なことなんだ、本当の衛星を打上げるのは、相当大変なんだと、ガツンとやられた気分でした。
このときは、かなり落ち込みましたが、結果的には、この経験はとてもよかったと思います。東大には、この「撃沈体験」を伝え、ちゃんと準備をしていくようにと伝えました。また、このとき以来、準備や資料作成には、相当に力を入れるようになりました。
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